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ちーさんのイイネあつめ

世界中のイイネを求めて

【創作】桜の季節に舞う粉は──のべらっくす第6回

毎月恒例、短編小説の集い。今月も参加します!

novelcluster.hatenablog.jp

 

今回のテーマは「桜の季節」
実体験半分、想像と妄想半分で書いてみました。

 

続きからどうぞ。

 「桜の季節に舞う粉は」

 毎年この時期になると、鈴子は憂鬱な気分になる。
 部屋には空気清浄機を完備。窓は一切開けない。口元には常にマスク。コンタクトは断念してゴーグル型メガネ。コートは付着しにくいナイロン製。外出も仕事以外は極力避ける。洗濯物は部屋干し一択。薬もちゃんと飲んで、目薬も常備。
「へっくしゅんっ!!」
 ここまでやっても、どうにも鼻はむずがゆいし、目元もむずむずする。肌荒れもひどくなるし、鼻詰まりのせいで、寝付きも良くない。

 春なんてなくなればいいのに。

 そう思ってしまうほどの花粉症が、毎年鈴子を苦しめていた。

/

 朝、鈴子の一日は、鼻づまりの状態で起床するところから始まる。一日の始まりからすでに目が痒く、痒いたらさらに痒くなるという経験から、なんとか目元に行きがちな手を我慢する。何枚もの鼻セレブを消化して鼻をかんでから、ようやくベッドから身を起こし、着替えを始める。それだけでずいぶんと時間を費やしてしまう。
 夫の正志とヨーグルトとトーストの朝食を急いで取ると、身支度を整える。マスクをつけるので、口周りの化粧はついおざなりだ。おしゃれの欠片もないナイロン製のコートをはおり、外出用のゴーグルメガネを装着。高性能マスクをつければ、ようやく出かける準備も完了である。
 花粉に対して、過剰反応をしているフシがあることは自覚しているのだが、ここまで対策しても一向に状態が改善しないし、やめてしまえば悪化するかもという恐怖があるから、やめるにやめられない。ただひたすら飛散量が少ないことを祈りながら、この季節が過ぎ去るのを待つばかりだ。

 正志と一緒に家を出る。職場が近いため、毎朝一緒に通勤している。最近は終電まで働く正志と、唯一まともにコミュニケーションが取れる時間だ。
「まだ忙しい時期は続きそう?」
 マスクの位置を調整しながら尋ねれば、正志は残念そうに頷いた。
 年度末は繁忙期なのだから仕方がない。
「ただ、四月に入ったら代休が取れそうなんだ。鈴も休めるなら、たまには旅行にでも行かないか」
 正志が疲れた顔に小さく笑みを浮かべる。
 マスクとゴーグルメガネの下で、鈴子は渋面を作った。
 四月に入ってもまだ花粉シーズンは終わらない。スギ、ヒノキにアレルギー反応をするから、GWがすぎるまでは気が抜けないのである。そんなときに旅行だなんて、どうにも楽しめそうにない。
「鈴、最近、休みの日も外に出てないだろ。僕の方も仕事ばかりで家のことを任せきりだし」
 お詫びの意味も兼ねて。
 正志の厚意はありがたいけれど、この季節は外に出なければいけないほうが、鈴子は辛い。ただ、せっかくの厚意を無下にするのもはばかられた。正志から旅行に誘うなど、結婚してから初めてのことだ。
「たまにはさ、気分を変えないと、気が滅入るだろ。こういう楽しい予定があれば、年度末、乗り切れそうなんだ」
 頼むよ。
 ついには、両手を合わせながら説得を始めた正志を見て、鈴子は仕方がないな、と肩をすくめた。
「いいけど、プランはお任せでいい?」
 人混みとかイベントとか観光地とか、そのあたりは考えるだけで頭が痛い。
「いいよ、それくらい。元々そのつもりだったから」
 鈴子が首肯すると、正志がホッとしたように笑みを浮かべる。
 それくらい、というが、この仕事が忙しい時期に、宿の予約やら何から何までというのはかなり大変なんじゃないだろうか。そんな考えが一瞬、鈴子の頭をよぎったけれど、本人が「元々」と言ったのだから、きっとすでに大まかなプランでもあるんだろうと思って、気にしないことにした。
「日取り決めたら教えて。休みとるから」
 ため息をつきながら、鈴子がそう言えば、正志はにこやかに頷いたのだった。

 これが三月上旬のスギ花粉が終わり始め、ヒノキ花粉が猛威を奮いかけた頃のこと。
 それからは、鈴子の仕事も正志に負けず劣らず忙しくなり、相変わらず一緒に通勤は続けていたものの、互いにその日こなす仕事のことで頭がいっぱいだったせいか、ほとんど会話を交わすこともなかった。
 あの話のあと、四月の二週目の土日を挟んで、金曜から月曜まで、と日取りの提案があってからは、少しも旅行の話をしていない。
 三月も最終週になると、鈴子は仕事が落ち着き始め、いつも通りの定時帰りになっていたが、正志は相変わらず終電帰宅を続けていた。
 こんなに仕事が忙しくて、いつ旅行の準備を進めているのだろう。そんな考えがたまに鈴子の頭をよぎるのだけれど、花粉の辛さがすぐにそれを上書きしていった。

/

 予備のマスク良し。花粉を無効化するミスト良し。帽子良し。メガネ良し。ジャンパーも良し。飲み薬、目薬良し。
 ついにやってきた旅行の当日。鈴子は朝から大事な花粉グッズに忘れ物がないかを点検していた。チェックリストを作り、夜も一度確認しているのだけれど、不安になってもう一度チェックせずにはいられなかった。
 国内旅行なのだから、旅行先でも入手できるだろうが、普段使っている効果の高いものが手に入るとは限らない。忘れてしまってこれから三泊四日の旅をするのは、鈴子にとってあまりにも絶望的な話だった。
「おーい、行くぞー」
 近くのレンタカーショップまで車を取りに行った正志が帰ってきた。玄関前からはかけっぱなしのエンジン音が聞こえる。
「いま、行くー」
 マスクの下からくぐもった声を上げると、鈴子は花粉対策グッズでことさら重くなった荷物を手に、玄関へ急いだ。
 靴を履いたまま玄関で待っていた夫に荷物を渡して外に出る。
 待っていたのは、トヨタ製のコンパクトカーだ。運転手の正志の実家と同じ車種を選んだ。鈴子は花粉症の薬で眠くなることをかんがみて、今回は助手席専門である。
「忘れ物は?」
「さっき確認したから大丈夫」
 玄関の鍵をかけ、車に乗り込む。
「んじゃ、行きますか」
 正志の掛け声とともに、車はするりと道路を走り出す。
 自宅周辺の路地を抜け、車は大通りへと入っていった。そういえば、今日の目的地をまだ聞いていない。
「ねぇ、結局目的地はどこにしたの?」
 鈴子がそう尋ねても、正志は意味深な顔で笑うだけだ。どうやら到着するまで秘密、ということらしい。
 諦めて助手席のシートに身を沈める。ちらりとカーナビに目をやれば、五時間という、ずいぶん先の到着時間を示していた。とにかくずいぶん遠出をするらしい。
スマホから好きな曲かけていいよ」
 サイドブレーキ近くを見れば、ポケットにケーブルが垂れ下がっており、一方はシガーソケットにつながれている。どうやらケーブルのコネクタに、スマホを挿せばオーケーの状態になっているようだ。
 鈴子はハンドバックから自身のスマホを取り出してコネクタにつなぐと、最近お気に入りのクラシックを流し始めた。荘厳なメロディが車中を満たす。
 ちらりと隣を見れば、ああ、やっぱりこれか、という顔で正志が笑っていた。そういえば、最近は家でもこればかりかけていたような気がする。
 他の曲もかければ? そのうち正志がそう言ってくるかもしれない。そう思いながらも、鈴子は次第にまぶたが重くなっていき、出かける前に飲んだ薬の影響か、気がつけばぐっすりと眠りこんでいた。

/

「鈴、着いたよ、鈴」
 自分を呼ぶ声で目を覚ますと、正志が困ったような顔でこちらを覗き込んでいた。車はどこかに停車していて、エンジンも切ってあるみたいだ。周囲には他の車もないようで、あたりは静まり返っている。
「鈴、ちっとも起きないんだもんな。昼飯、途中のパーキングで食べようかと思ったけど、諦めてコンビニで調達しておいたよ」
 そう言って、おにぎりとサンドイッチが入った袋を掲げる。
「外で食べようか。そのほうが気持ちいいだろうし」
 その言葉を聞いて、寝ぼけた頭ながら、鈴子は思いっきり顔をしかめた。
 この花粉のシーズンにお外でピクニック気分でランチだなんて、とてもじゃないが受け入れられなかった。
「ほら、だまされたと思って、外に出て」
 正志はそういうが、フロントガラス越しに見える外の景色は、木がたくさん生い茂る山の中。明らかに家のあたりよりも花粉が飛んでいそうで、鈴子は憂鬱でしかない。こんな場所で外に出るなんて狂気の沙汰としか思えなかった。
「ほーら、絶対、鈴は気に入るから」
 いつの間にか外に出て、助手席のドアを開けた正志が、強引に鈴子の手を引く。
 出会った頃から絵に描いたような控えめな男性だった夫の、こんな強引な姿を鈴子は初めて見た。
 あまりに驚いて、一瞬抵抗できなくなる。
 正志に引っ張られて、体がするりと車の外へ飛び出した。
 マスクやゴーグルの隙間から、春にしては冷たい風が頬を撫ぜた。

 そこは、本当に森の中だった。
 周囲は木々で覆われ、道はいつの間にか舗装されていなくて土がむき出しのものに変わっている。周囲に人の気配はなく、あるのは、木と、鳥の声と、少し冷たい風と、小さな丸太のコテージだけだった。
「今日はここに泊まろうと思ってね。さ、少し先に見晴らしのいいところがあるんだ、行こう」
 片手に昼ご飯の入ったコンビニの袋、もう片方の手では鈴子の手を握ると、妻の返事も聞かず、正志は森の中を歩き始めた。
 四月の初めとはいえ、森の中には冷たい風が吹いている。ジャンパーの隙間からひやりとするような風が流れ込んできた。出かけるときは暖かかったから油断していた。
 こんなに寒いなら、もう少し、厚手の上着にすればよかった。少し寒いことくらい言ってくれればいいのに。
 花粉シーズンまっただ中に、森の中を歩かされているという不快感から、つい鈴子はそんなことを考えてしまう。おまかせで正志が引き受けてくれたとはいえ、なんの事前準備も手伝わなかったのは自分なのに。
 寒さに肩を震わせながら、無言で正志のあとを歩く。もうずいぶん長く歩いた気がしてくる。
「ねぇ、まだつかな──」
 鈴子がしびれを切らしたそのとき、森が開け、広大な青空が姿を現した。
 そこは、切り立った崖になっていて、頭上は澄んだ青い空。眼下は緑生い茂る山々が広がっている。山の中にはところどころピンク色が散らばり、山桜が花開いているのが遠目にも美しい。
 どこからか鳥の鳴き声が聞こえ、さわさわと山が歌う。
「鈴、先にご飯にしよう」
 鈴子が眼下の景色に目を輝かせているうちに、正志はどこから取り出したのか、ピクニックシートを広げ、その上でくつろぎ始めていた。ビニール袋をひっくり返して、昼食のおにぎりやサンドイッチをシートの上にばらまく。
「鈴、何がいい? 鮭おにぎりだけは譲りたくないんだけど」
 ごきげんとりをする正志がおかしくて、鈴子はつい笑ってしまう。おにぎりなんて、どれでも好きなモノを食べればいいのに。
「私はサンドイッチにするから、どうぞ」
 たまごサンドを手に取りながら、鈴子もシートの上に座る。なんだか、小学校の遠足みたいだ。
 包装のビニールを取ると、さて、と鈴子は気を引き締める。なんといっても、食事中はゴーグルメガネはともかく、マスクは外さざるをえない。
 こんなステキな景色を見ながらのランチはおいしい。間違いなくおいしい。
 けれど、マスクを外してしまえば、くしゃみと鼻水のオンパレードが水を差してしまいそうで憂鬱になる。とはいっても、マスクのままでは食べられない。
 意を決してマスクに手を掛ける。
 途端に山の空気が鼻から口から次々に流れ込んできた。ずいぶんと山奥まで来たせいか、家のあたりとは空気の味が全然違う。一瞬、花粉のことを忘れて、鈴子は大きく深呼吸をして、空気を味わった。
「……おいしい」
 ぽつり、とつぶやく。空気は澄んでいて。明らかに花粉は飛んでいそうなのに、ちっともムズムズしない。もう一度、大きく息を吸い込む。
「おいしい」
 会社でのランチタイムには、マスクを外した瞬間にやってくる喉のむずむずもちっともやってこない。純粋に、おいしい空気だけが喉を潤す。
「ん? たまごサンドおいし……ん?」
 鮭おにぎりに夢中だった正志は、ただひたすらに深呼吸を繰り返す鈴子の様子を不思議そうに眺めた。
「ここ、すごいね。全然マスクがいらない。いろいろ持ってきたけど、全部いらないかも」
 んー、と伸びをすれば、いつもより背筋がしゃんとするような気がする。
 老後はここみたいに空気のきれいなところに住むのもありかもしれない。
 久しぶりに心を弾ませながら、鈴子はもう一度新鮮な空気を体いっぱいに吸い込んだ。

  了

 

 

まだまだ続く花粉シーズン。鈴子のお仲間のみなさん、一緒に頑張りましょう。
田舎は、都会より花粉症がマシという話から書きました。
お楽しみいただければ幸いです。